初骨董 大江戸

Ubu.6 富岡鉄斎 解剖図 



今日は人間ドックの日である。妻が病気をして以来、妙に体のことが気になる。大抵40才を超えてくると「老い」というものが現実となり、肉体が気遅れしてくることを感じ始める。実に悲しいことである。実感して思うことは人の体は水槽の様なもので、いつか終いには濁り腐りはてるのである。真に悲しいことである。
「これはいかん。」と少しやる気のある者は煙草を止めてみたり、体を動かしてみたりしてわずかばかりの抵抗を試みる。私も同じである。生きるということは、か弱きことなのである。
最近の医学もいかんと思う。早期発見などといって現代人を検査漬けにする。元々現代人などという者は小心者の代名詞みたいなものだから、「再検査」などと宣告されると慌てふためき、気を失いかけそうになる。そうなると体のことが心配で後生大事とばかりに石橋をつつきだすのである。
益々世間がせまく成り下がる。ひきこもりも甚だしい。これこそ悲しいことである。こんなことであるなら100年前の鉄斎先生の頃のように、なにかと大雑把で「これは不治の病というもので天命です。」とか「もう寿命だからしかたあるまい。」とか最末期に言われた方が気が楽である。
場所によっては長生きしすぎると山に捨てられることもあるのだから、それなら「私は里で死ねて幸せ者だ。」と孫に囲まれ息を引きとることとなる。
死は突然訪れて来た。まるで隣の晩ごはん状態だ。
私は「うーん。」とうなずいて以下の通りにすることに決めた。
「生きる」などという前向きで野暮なことはやめて「死ぬ」ことに決めてみる。自分にとって最良の死に方をイメージしてみるのである。そのイメージに向かって、明日から後ろ向きでアプローチして行く。「死ぬ」と決めているのだから、なにをやっていても納得ゆく。ましてはその姿に近づいてゆけるのだからなんだかポップでファンキーな気分である。
「おまえはもうすでに死んでいる。」なんてすごいキャッチコピーなのかしら。「俺はもうすでに死んでいる。」なんだか楽しくなってきた。
もう一度叫ばせてくれ。「俺はもうすでに死んでいる。」
俺のレクイエムが鳴り始めた。なんとかましな人生になりそうな気がする。「007は殺しの番号」そこで最後に決めポーズ。キムヨナ程美しくないが、なんかイケてる気がする。ニューヒーローの誕生だ。
「大変だ!」大事なことを忘れていた。今日は胃カメラを初めて飲む大切な人間ドックの日だった。朝一番で提出検便を取るのを忘れていたのだ。
俺はすばやく半ケツ出して便所に駆け込む犬のイメージ。




正宗氏所蔵 富岡鐡斎 解剖図
―70万円也―

[2010.03.02 Tuesday 14:31] [販売中の商品]

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